ぼくは、ちちうえがキライだ。
だって、みんなが言うんだ。
ぼくのちちうえは女みたいだって。
ばかにされるから、ちちうえがキライだ。
ははうえは大好き。
いつもいっしょにあそんでくれるんだ。
やさしくて、うつくしいんだ。
だから、おっきくなったら、ははうえをぼくのおよめさんにするんだ!
【目指すもの】
「美しくない……」
愛妻の部屋の前の廊下をうろうろしながら張コウは呟いた。
こんなにも落ち着かないのは、生まれて初めてだ。
今まさに命懸けで戦っている彼女のために、何の力にもなってやることもできない自分に
苛立ちがつのる。
室内から苦しげな彼女の声があがるたびに、不安に襲われる。
今すぐにでも戸口をぶち破って彼女の元へ行き、あの華奢な手を握りしめてやりたい。
だが、今日ばかりは強気な侍女たちに、張コウは愛妻の部屋への入室を固く禁じられていた。
それでも自室に篭っている気になど到底なれずに、彼女の部屋の前でしばらくやきもきしていた。
心中に溜まる不安を吐き出すように深いため息をつく。
と、その時、一人の侍女が盥を持ってやってきた。
愛妻、付きの侍女だ。
張コウの存在に気がついた侍女は軽く頭をさげた。
手に持つ盥の中は、ぬるま湯で満たされている。
それは、今まさに産まれ出ようとしている赤子のための産湯だ。
張コウとその愛妻の初めての赤子だった。
張コウがらしくもなくそわそわしているのは、そのためである。
侍女も主の不安を察したのか、安心させるようにふわりと微笑む。
「張コウ様、あまりお気を揉まれずとも、様は母としての初のお仕事を
きっと立派に成されますよ」
侍女の言葉に、張コウは苦笑する。
自分は人に心配されるほど情けない表情をしていたのだろうか。
侍女は、珍しく動揺を顕にする張コウに、説くように言う。
「殿方からしてみれば、女性はか弱く、軟弱のように思われるのかもしれませんが、
耐えるという行為においては、女性は男性よりもむしろ秀でているのですよ。
女性は子を産むという役目を担うだけの忍耐力を天から授かっているのですもの」
静かに部屋に入った侍女は、戸を閉める間際、張コウを見上げた。
「“母は強し”ですわ」
張コウの前で扉が閉ざされる。
目を閉じて微笑んだ張コウはフッと肩の力を抜いた。
そうだ。
ここでただ動揺していても、何の意味もない。
今は、産みの痛みに懸命に耐える彼女を心中で精一杯励まそう。
そう決めて、張コウは扉を背にしてその場に腰をおろした。
祈るように。
念じるように。
彼女の痛みが少しでも和らぐようにと、張コウはを一心に思い続けた。
そうしてしばらくの部屋の前に座っていた張コウは、ふと顔をあげて立ち上がった。
扉越しでも分かる。
室内が一層の緊張に包まれた。
の一際苦しげな声に、産婆の「いきみなされ!」という大きな声が重なった。
一瞬の静寂。
そのすぐあとに。
おぎゃあ!おぎゃあ!
元気な産声があがった。
産まれた!と張コウが思ったと同時、目の前の扉が開かれる。
「張コウ様、中へどうぞ!お早く!」
先ほどの侍女が、張コウを急かす。
導かれるままに、張コウは室内に足を踏み入れた。
「男の子ですよ」
産婆は、ほくほくと微笑みながら、赤く染まった産湯からあげた赤子を布で包んで
張コウに差し出した。
全身を震わせて産声をあげる赤子を、張コウは言葉もなく見つめる。
未知のものと遭遇した気分だ。
産まれたばかりの赤ん坊というのは、こんなにも小さなものなのか。
呆然としたまま動かない張コウに産婆は促す。
「抱いてあげてくだされ」
産婆に赤子の首根をしっかり支えてやるように教えられ、張コウは差し出されたわが子を
恐々といったふうに腕に抱いてみた。
そして重さが全く感じられないことに、また驚く。
まるで空気だ。
手の中の小さな命はとても儚く、頼りなく思えるが、自分はここにいるぞ、とその存在を
主張するように赤子は大きな声で泣いていた。
紛れもない生命だった。
新しい命の誕生の奇跡に、張コウは自然と涙した。
なんと大きな感動だろう。
涙が止まらない。
産婆や侍女達も、そんな主を温かく見つめ、中には貰い泣きする者もいた。
侍女の一人がそっと囁く。
「張コウ様、様のお傍に……」
言われて、張コウが臥所の愛妻に目をやると、彼女は一仕事終えた後の汗だくの顔に
微笑みを湛えた。
張コウは、愛児を腕に抱いたまま、の元へ歩む。
愛児をによく見えるように寄せてやると、赤子は不思議とぴたりと泣き止んだ。
は愛児のほうに顔を向ける。
「乱世を恐れずに、よく勇敢に産まれてきたわね」
わが子を優しく見つめる瞳に、慈愛の涙を溢れさせる。
「―――……いい子」
張コウは、汗に張り付くの髪を直し、労をねぎらうように額に唇を落とした。
「私の子を産んでくださって、ありがとうございます」
何万回御礼を言っても足りないくらいだ。
万感の思いをこめて、繰り返す。
「ありがとう」
はふわりと、微笑みを返した。
夫の言葉が、
嬉しかった。
××××
―――それから五年。
雄と名づけられた赤子は両親に愛され大切に慈しまれて、すくすくと成長し、
男の子らしい腕白な子に育っていた。
だがしかし、腕白が過ぎるのが最近では張コウの悩みの種となっていた。
張コウが特に気に入って取り寄せた、美しい風景を写した屏風に、
墨で落書きを施されて見る影もなくなったときは眩暈を覚えた。
自慢のコレクションである衣装を破かれたときも、ショックのあまり
笑うことしかできなかった。
そして。
「雄っ!」
自邸に帰った張コウは、息子を一目見た途端、ひっくり返ったような声をあげた。
滅多なことには動じない張コウを、何がそんなに驚かせたのかというと。
雄のその姿。
顔から手から服から、全身泥だらけだったのだ。
だが張コウはもっと驚くべき光景を目の当たりにする。
「お帰りなさいませ」
愛しい妻の聞き馴染んだ声に、驚きを忘れてにこやかに挨拶を返そうとを見た張コウは。
言葉を失った。
愛妻の姿もまた息子に負けず劣らず泥だらけだったのだ。
張コウは手指で額を抑えるようにして嘆く。
「雄だけならまだしも、……あなたまで一緒になって泥だらけになることはないでしょう」
するとは困ったような、だがどこか楽しそうな笑顔を張コウに向ける。
「ですが儁艾様、とても楽しいのですよ、泥んこ遊び♪ね、雄」
にこにこと息子を見下ろすに、雄も笑顔で頷く。
「ねー、ははうえ♪」
あまりにも無邪気な二人に、張コウは仕方なさそうに吐息した。
「とにかく、泥を落としてらっしゃいな」
はい、と元気に返事をして仲良さ気に手を繋ぎ、沐浴所へと向かう母子の背中に
張コウは苦笑する。
あの人は―――はいつまで経ってもまるで少女のようだ。
一児の母とは到底思えない。
と言うと、頼りない印象を与えるが、一人息子の雄を母親として五年間立派に育ててきた
実績がある。
雄が高熱を出して寝込んだときなど、むしろ張コウのほうがうろたえていたほどだ。
「子どもは熱を出しやすいものです」
そう言って落ち着いて看病にあたるに、母としての頼もしさを張コウは感じた。
歳の離れた弟妹がいるは、子どもの扱いに手馴れているのだ。
この人で良かった、と張コウは心底思う。
こんなにも尊く思う女性が自分の妻であると思うと、幸福感が満ち溢れてくる。
往来のど真ん中で叫びたい気分だ。
この美しい方を御覧ください!私の妻なのですよ!と。
実際、身近な者達にはこれでもかというほど自慢しつくしたが。
そして同じくらい自慢しつくしたもう一人の大切な宝が、雄だ。
雄が産まれたとき、初めて喋ったとき、父上と呼んでくれたとき、一人で立ち上がったとき、
本当に今まで数え切れないほどの感動を、雄は沢山くれた。
だが。
最近、どうも自分は雄に避けられているように思えて仕方がない。
城から帰ると、門前で待ちくたびれたように自分の帰りを待っていてくれた雄の姿が
ある日を境にぱたりと見られなくなった。
前のように遊びをせがむこともなくなった。
自分は雄に避けられるようなことを何かしただろうか。
張コウは思い悩んだ。
××××
夜。
床を共にするに、張コウはため息交じりに吐露する。
「どうも最近、私は雄に避けられている気がしてならないのです」
嫌われてしまったのでしょうか、としょんぼりする張コウを、は珍しいと思った。
いつも羨ましいくらいに自信の塊のこの夫が、肩を落としている。
は考えるように少し首を傾げる。
「儁艾様は愛情表現が過ぎるところがあるので、雄はそれを鬱陶しく思っているのでは
ないでしょうか」
妻の言葉に、張コウは顔を醜く引き攣らせそうになるのをどうにか堪える。
控えめで穏やかな気性の人だと思えば、たまにグサリと胸に突き刺さるような
きつい一言を言ったりするのがこの人なのだ。
しかも悪気というものがまったくない。
天然気質なのだろうか。
悔しかったので、張コウは怒ってみせた。
「それは雄のことですか。それともあなたの思いなのですか」
低い声音で問われたは、今のは失言だったと気付き、言葉につまる。
を困らせてやったところで機嫌を直した張コウは、いわく
過度な愛情表現を存分に発揮せんと愛妻を抱き寄せる。
そして、抱き寄せられるままの素直なに、より深く愛し合う時の決まり文句を言う。
「仲良くしましょうv」
そう言う間には、端整な顔がの唇を奪う。
唇を深く合わせながら、張コウはの上になった。
夫婦の営みがまさに始まろうとしたそのとき。
「ははうえ〜」
幼い泣き声。
「雄?」
紛れもないわが子の泣き声に、は素早く反応し、
覆いかぶさる張コウをドン!と突き飛ばした。
無意識下の行動なので、力の加減がまるでなく、突き飛ばされた張コウは
寝台から美しく転がり落ちた。
武人なだけに、反射的に受身を取ることは出来たが、の予想外の力に
張コウは床に転がったまま驚いたように眼をパチパチと瞬かせていた。
子を想う母の強さはどんな猛者にも勝る、ということか。
が戸口を開けると、そこに泣きながら立っていたのは果たして雄だった。
「雄?どうしたの?また怖い夢見たの?」
こくん、と頷く雄。
「じゃあ、いらっしゃい」
と臥所に招くのだが。
雄はイヤイヤと首を振った。
「ははうえと二人がいい」
息子の衝撃的な言葉に、張コウはガバリと起き上がる。
床に転がっている場合ではない。
戸口に早足で寄った張コウは小さな雄を見下ろして、
「雄、少しそこで待っていないさいね」
と、早口で言って戸を閉めてしまった。
そしての方をバッと振り返る。
「私はやはり間違いなく絶対に雄に嫌われているのです!何故ですか!何故なんですか!」
縋るように尋ねてくる張コウに、は困る。
何故と言われても、思い当たるところはない。
「……反抗期……なのではないでしょうか」
苦し紛れに答えてみるが、張コウは納得しない。
「には普通に接しているではありませんか!」
するとまた、
「ははうえ〜」
と、息子が母を呼ぶ。
は焦る。
「このまま放っておいたら雄がむずかってまた泣いてしまいます」
戸口に立つ張コウを退けようとするのだが、
「私だってがいなくなったら寂しくて泣いてしまいます!」
などと言って頑として譲らない。
自分の息子が今にも泣き出しそうな状況なのに、この夫は何を言うのだ。
だが、張コウは愛児の態度にひどく気が動転しているらしく、このままでは
通してくれそうもない。
「雄を寝かしつけたら戻ってきますので」
どうしようかと考えた挙句そう言うと、張コウは「なるべく早く戻ってきてくださいね」と
念を押してから、ようやく退いてくれた。
その夜、張コウがいくら待っても、は戻ってこなかった。
××××
朝の張コウの室内。
顔を会わせた夫婦の間に、気まずい空気が流れる。
未だに一言も言葉を発してくれない夫に、は申し訳なさそうに弁解する。
「雄を寝かしつけているうちに……その……いつの間にか寝てしまったみたいでして……
気が付いたら、朝だったのです……」
チラリと張コウを上目遣いで伺うと、彼は相変わらずムスッとしている。
嫌な沈黙の間が続く。
と。
「泣いてました」
張コウはムスッとしたまま、短く言った。
え?とが張コウを見上げると、彼は不機嫌も顕に繰り返す。
「寂しくて泣いてました」
「……儁艾様」
まさか本気で泣くはずないだろうとは思うが。
「あなたがいなくて、寂しくて泣いてました」
完全に拗ねてしまっている。
「―――ごめんなさい」
はとりあえず謝ってみたのだが、
「、物事には謝って許されることと、許されないことがあるのですよ」
鋭く言われた。
今回のことは、誰がどう考えても謝って許されることだろう。
だが、憮然とする張コウの様子は、明らかにを許してはいない。
「では、どうしたら許していただけますか?」
仕方なそうに問うと、憮然としていた張コウは一変し、ニッと口端をあげた。
嫌な予感がしてが身を引こうとしたときは、両腕はがっしりと張コウに捕まれていた。
「仲良くしましょう♪そしたら許して差し上げます」
「待っ……」
慌てるを臥所に押し倒しつつ、その小さな口を深く覆った。
「んんっっ」
は上に乗る張コウを引き剥がそうと、腕に力を入れる。
朝っぱらからこんなことをしていたら、出仕の時間に響いてしまう。
そう思い、拒絶するように張コウを押し返すのだが、のか弱い力などものともせずに、
張コウは依然として唇を貪り続ける。
と。
「ははうえ〜」
遠くで息子が母を呼んだ。
途端、張コウを引き剥がそうとする細腕に、凄まじい力が加わる。
そして次の瞬間には、張コウは昨夜と同様、寝台から美しく転がり落ちていた。
息子一大事と思うと、どうやらは覚醒するらしかった。
張コウが身を起こした時には既に、は息子の声の元へと消えていた。
××××
「どうなされたのです」
張コウ邸の門前、出仕する張コウを見送るは、夫の様子が気になって尋ねた。
明らかにその身に不機嫌オーラを纏っている。
馬上の張コウは膨れ面だ。
「ったら雄ばっかり構って、私のことをちっとも相手にしてくれないんですもの!」
また、拗ねているらしい。
「そうは申されても、雄も甘えたい年頃なのだから仕方ありません」
「私だって甘えたい年頃なのです!」
臆面もなく言い放つ張コウに、は目を丸くした。
張コウは唇を尖らせている。
この夫の甘えたい年頃というのは、いったいいつまでのことをいうのだろうか。
は可笑しそうに肩を揺らす。
張コウの場合、おそらく命の灯が消えるその瞬間までが甘えたい年頃なのだろう。
愉しそうに笑うに、張コウの不機嫌オーラはすぅっと引いていく。
この人の朗らかな笑顔には、いつも心が浄化される。
張コウも微笑みを浮かべ、馬上から利き手を伸ばした。
見上げるの頬を撫でるように触れ、唇を親指でなぞって手を離す。
「今夜は、きっと仲良くしてくださいね」
は一度ゆっくりと頷き、それから深々と頭をさげた。
「行ってらっしゃいませ」
行ってきます、と意気揚々と馬を蹴り遠ざかっていく張コウの背を、
はいつものように見えなくなるまで見送り続けた。
××××
昼が過ぎた頃、贔屓にしている仕立て屋が張コウ邸を訪れた。
己を飾ることに余念がない張コウのために、新しい生地が入荷したら
随時訪問するよう依頼しているのだ。
「まぁ、どれも素敵で、目移りしてしまうわ」
目の前にずらりと並んだ色とりどりの生地を、は目を輝かせて眺める。
(儁艾様、お喜びになるわ)
仕立て屋も、愛敬を振り撒く。
「張コウ様になら、きっとどれもお似合いになりますよ」
は、並べられた品の中から、特に張コウに似合いそうなもの、
張コウが好みそうなものを数点厳選した。
(さて、と…)
仕立て屋との綿密な打ち合わせがひと段落すると、は雄を探しに立った。
多分、庭先あたりで侍女達と遊んでいるとこだろう。
ここ最近の雄の行動を思い起こしてみると、確かに雄は父である張コウに寄り付かなくなった。
だが、雄が張コウを避ける理由が思いつかない。
張コウは雄にいつだって優しい。
あるいは母である以上に、優しかった。
張コウを避ける訳を雄に直接問い質す必要がある。
が庭に出ると、侍女達と隠れ鬼の最中にも関わらず、雄は縁の下の隠れ場所から出てきた。
「ははうえ!」
駆け寄ってきた雄は、の足に纏わりつくように抱きついた。
「まぁまぁ、張雄様ったら、お出になってしまわれたのですか」
侍女達は一同笑いながら隠れ場所から出てくる。
は低い位置にある頭を易しく撫でてやる。
いつものように「遊んで」と、見上げてくる雄の目線の高さに合わせ、
はそこへしゃがんだ。
「ねぇ雄、今度父上と三人で一緒にお花見に行きましょう」
すると、雄の笑顔がサッとひいた。
むっつりとしたまま黙ってしまった雄に、は呼びかける。
「雄?」
雄は低い声で言った。
「……ちちうえ、きらい」
これはいよいよ張コウの言葉も戯言ではなくなってきた、とは表情を引き締める。
雄の言葉には、侍女達も困ったように顔を見合わせた。
和やかな雰囲気が一変する。
は努めて穏やかに尋ねた。
「何故?父上はあんなにお優しいのに、何故雄は嫌いだなんて言うの?」
雄は憮然としたまま下を向いている。
さすがに親子なだけに、張コウが見せた不機嫌面とよく似ている。
雄の答えを根気よく待っていると、やがて雄はポツリと言った。
「みんなが、ちちうえは女みたいだ……って」
「みんな?みんなって近所のお友達?」
が尋ねると、雄はこくりと頷く。
「ちちうえは女みたいだから、きっと女みたいになよっちいんだろうって」
なるほど、近所の子等にからかわれ、雄は相当嫌な思いをしたらしい。
だが。
「雄は父上のことをそんな風に思ってはいないのでしょう?」
雄はまた黙ってしまった。
確かに馬鹿にされたことは悔しかったが、それ以上に雄には父を厭う理由があった。
母、の存在である。
雄は母であるが大好きだった。
独り占めしたかった。
母と仲睦まじい父を、まるで恋敵のように思い、対抗心を抱いていたのだ。
だが、幼い雄にはそんな複雑な心情を言葉に言い換えることは出来ない。
自然、同じ言葉を繰り返すことになる。
「ちちうえなんか、きらいだ」
は雄の細い両腕を強く掴んだ。
「雄」
雄はビクリと顔をあげる。
母のこんな低い声は今までに聞いたことがない。
「父上はそのような御方ではありません。お国のため、そして私たち家族のため、
立派にお仕事を果たされております。父上に対する侮辱はこの母が許しません」
声こそ荒らげてはいないが、その厳しい口調と眼差しは、幼い雄にとっても、
充分に母の怒りを認識させるものだった。
生まれてこの方母に怒られたことなどなかった。
見る間に顔容を崩した雄は、けたたましい泣き声をあげた。
まるで、この世に自分以上に不幸な者はいないというような嘆きっぷりだ。
だがは、決して優しい手を差し伸べようとはしなかった。
泣けば許されるなどと、覚えさせてはならない。
雄は、次第に不安を覚え始めていた。
(ははうえは、ぼくがきらいになったんだ)
泣き声をあげることを止め、雄はただしゃくり上げた。
の瞳は依然として厳しく雄を見つめている。
(ぼくは、いらない子なんだ)
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を歪ませた雄は、掴まれた腕を振り払い、
どこかへ走り去ってしまった。
立ち上がったは、疲れたように息を吐く。
そして心配顔をする周囲の侍女達に笑いかける。
「困った子ね」
人を困らせることが得意なところも、父、張コウにそっくりだ。
それでも、雄の言葉が本心からではないことを、自身分かっていた。
雄はまだ幼く、父の真の姿が見えていないだけだ。
いつか話して聞かせてあげようと思っていた。
雄がまだ自分のお腹の中にいた時に、身を挺して庇ってくれた父の雄姿を。
あの時の張コウが、どれほど雄々しく、立派であったかを。
(機嫌を直して戻ってきたら、話してあげようか)
そう思っていたのだが。
いつまで経っても雄は一向にの前に現われない。
いつものように近所の子等と遊んでいるのだろうと思っていたのだが、
夕方近くになっても雄は戻らなかった。
さすがに不安に思ったは雄を探しに邸を出た。
いつも雄が一緒に遊んでいる子等を訪ねるが、その中に雄はいなかった。
聞けば、今日は誰も雄とは会っていないという。
の顔からサッと血の気が引く。
雄がいない。
もしかして行き違いになってしまったのだろうか。
急ぎ邸に戻った。
××××
職務を終え、真っ直ぐに邸に戻った張コウは、邸内を包む異様な空気に眉を顰める。
使用人たちが、ばたばたと騒がしげに廊下を右往左往している。
皆口々に雄の名を呼んでいるようだが。
何かあったのだろうか。
いつも出迎えてくれるの姿もない。
張コウの胸中に不安が渦を巻く。
ただならぬ事態が起こったことは確かだ。
その証拠に、主である自分の帰宅に誰も気付かない。
下馬した張コウは、馬丁が一向に現われないので、手近な木に手綱をくくり付けた。
とりあえず近くの使用人を捕まえて、何事かと問おうとした時。
「儁艾様っ!」
愛妻の叫ぶような声に、張コウは振り返った。
「、どうしたのです」
息を切らせたは、張コウの腕を掴む。
「雄は……雄は戻っていますか!?」
「私も今しがた戻ったばかりなのでまだ雄の姿は見ていませんが……まさか……」
妻の必死な様に、息子が行方不明になったということを察した張コウは表情を堅くする。
「……いなくなったのですか、雄が」
は、今にも泣き出しそうな顔で頷いた。
門番の話では、外出する雄を目撃したが、それっきり戻ってはいないとのことだった。
とすると、邸内に雄はいない。
張コウは無言で身を翻すと、繋ぎ止めていた馬に跨る。
「子供の足です。そう遠くへは行けないでしょう」
とにかく、完全に日が落ちる前に雄を探さなければ。
「私もお連れください!」
今にも馬を駆ろうとする張コウに、は縋るように言った。
このまま邸でただ待っていることなど出来ない。
二人乗ることで馬の機動性は落ちることは分かっていたが、雄を探す目は
多いに越したことはないという結論に達し、張コウは馬上から手を伸ばした。
「乗りなさい!」
差し出された手に引かれ、は張コウの後ろに乗る。
「しっかり捕まっていなさい!」
「はい!」
振り落とされないように、は逞しい胴にしがみつく様に腕を回す。
張コウの掛け声と共に馬が疾走する。
広い背に額を押し付けながら、は息子を案じた。
(どうか無事でいて……どうか!!)
張コウは子供の足だから遠くへは行けないと言ったが、もしも雄が
自らの意思で消息を絶ったのではなかったとしたら。
雄は将軍張コウの息子だ。
身代金目当てに誘拐されたとしても、おかしくない。
山野深く入り込んで誤って崖に足をとられて転落していたら、どうしよう。
野獣に襲われなどしたら、どうすればいいのだろう。
悪い予感ばかりが頭を巡る。
それを振り払うように、は頭を振った。
道行く人に手当たり次第雄の行方を尋ねるが、手がかりになるような答えは返ってこない。
そうしている間も、次第に日は暮れていく。
早く見つけてあげなければ、暗がりをとても怖がる雄のことだ、きっと泣いてしまう。
いや、今も独りぼっちの心細さに泣いているに違いない。
気ばかりが焦って、自身どうしようもなく泣きたくなった。
張コウは勘だけを頼りに、ひたすらに馬を駆る。
すると、また人に会った。
「おや、張コウ様と奥方様じゃありませんか」
いつも邸を訪ねてくれる仕立て屋だ。
ちょうど店を閉めようとしていたらしい。
張コウが手綱を引くと、仕立て屋は怪訝そうに首を傾げた。
「どうなさったんですか。そんなに慌てて」
最後の望みとばかりに、張コウとは事情を説明した。
事情を聞くと、仕立て屋は考え込むように顎に片手を添えた。
「……すると、やはりあれは張雄様だったのか……まさか張コウ様の坊ちゃまが
お一人でふらふらしているはずもないと思って、他人の空似だとばかり……」
ぶつぶつと、独り言のように言う仕立て屋の言葉は聞き捨てならないものだった。
張コウは仕立て屋の胸倉を掴まん勢いで尋ねる。
「見たのですかっ!?雄を!!」
張コウの勢いを抑えるかのように、仕立て屋は両の掌を前に出した。
「い、いえ、少し前に山の方に歩いていく子を見かけたのですが、
もしかしたら張雄様に似ているだけかもしれませんし……」
「雄のように美しい子供が二人といるわけがないじゃないですか!
雄に間違いありません!!」
そう断言し、張コウは山中を目指して馬を駆った。
初めて得られた手がかりらしい手がかりに、は喜ぶどころではなかった。
(山に入ったですって!?)
山賊やら獣やら、先ほど懸念した危険要素が再び首をもたげる。
一層の不安が暗雲となって胸中を覆った。
××××
雄は、歩き疲れて道端の木に寄りかかるように座り込んだ。
勢いで家出などするんじゃなかったと、激しく後悔した。
また涙が滲む。
いらない子なら、いっそいなくなってやろうと思ったのに。
こんなにも母が恋しい。
孤独が寂しくて怖くて悲しい。
早く迎えに来てほしい。
「うぅっ」
堪らずに泣き声を漏らした。
日が落ち始め、辺りがだんだん暗くなってくると、心細さに恐怖心も伴って、
雄は泣かずにはいられなかった。
「ははうえ〜」
ふとその時、雄は獣の遠吠えを聞いた。
恐怖に顔を強張らせて辺りをキョロキョロし、己の存在を隠すように
膝を抱えて身を縮こませた。
(ははうえっ!!)
助けを求めるように心で絶叫すると。
「雄―――っ!!」
遠くで聞こえた母の声に、ハッと顔をあげた。
幻聴かと思っていると、
「雄、お願い、返事して!!」
確かに聞こえた。
母の声だ。
立ち上がった雄は、思い切り息を吸い込んであらん限りの声で叫んだ。
「ははうえ―――っっ!!」
張コウは手綱を引いた。
「儁艾様っ」
に張コウは頷く。
「ええ!」
聞こえた。
間違いなく雄の声だ。
がもう一度雄を呼ぶと、今度はしっかりと雄の声が聞こえた。
「雄、そこにいなさい!」
張コウは姿の見えない雄に、動かないように告げると、声がした方に馬を進ませる。
蹄の音が近付いてくる。
精一杯背伸びをした雄は、目一杯首を伸ばして迎えを待った。
見覚えのある白馬の上に両親の姿を認めた雄は、堪らずに走り出していた。
も馬から飛び降りて、愛しいわが子目指してまっすぐに走った。
「ははうえーっ!!」
「雄!!」
母子は抱き合った。
は息子の無事な姿に心底安堵して、膝立ちのまま我が子を強く抱きしめる。
「……よかったっ!雄っ!」
雄は母の胸の中で泣きじゃくる。
母が迎えに来てくれた。
自分はいらない子ではないのだ。
抱き合う二人の姿に、張コウもようやく堅い表情を崩す―――が。
(―――!?)
ただならぬ気配を感じた。
どうやら歓迎しがたいもののようだ。
馬も何かを恐れるようにピンと耳を立てて全身に緊張を顕にした。
下馬した張コウは、まっすぐに妻子の元へ向かう。
笑顔で夫を振り返ったは、すぐにその笑みを消した。
思わず萎縮してしまいそうになるほど、夫の表情は鬼気迫るものがあった。
「儁……」
「しっ」
の声は鋭く制された。
「そのまま動かないで」
いつになく緊張感を含んだ夫の声音に、は一にも二もなく従う。
雄もただならぬ父の様子に何か感じるものがあったのか、言われたとおり大人しくしている。
妻子を守るように背にして、辺りの気配を探りながら油断なく瞳を巡らす張コウの前に、
それは現れた。
黄と黒の縞模様をした毛並みの巨大な獣。
飢えたように剥き出した牙の間からは、低い唸り声が漏れる。
二つの眼光は見つけた獲物を決して逃さじと、張コウの喉元に狙いを定めている。
初めて目の当たりにした獰猛な獣に、の全身が強ばった。
これは……これが掛け軸や屏風絵でしか見たことがなかった獣―――虎だ。
は咄嗟に雄を庇おうと、手を伸ばそうとした。
「雄」
と、虎を見据えたまま、張コウは息子を呼んだ。
突如目の前に現われた野獣に恐怖し、今にも泣き出しそうだった雄はビクリと顔をあげる。
「母上をしっかり守りなさい」
背を向けたまま発せられた父の言葉に、雄は目を見開く。
今まで、父や母に守られてばかりいた自分が、初めて大切な人を守るという大任を任された。
幼い雄の胸に炎が燈る。
恐怖を力ずくで捻じ伏せて、雄はキッと眉をあげた。
「はいっ!」
頷いて、母を背に立ちはだかり、通せんぼするように両手を広げる。
は驚いたように呟く。
「雄……」
あの泣き虫雄が。
恐いのを我慢して、母を必死に守ろうとしている。
こんな危機に面した時だというのに、はいたく感動してしまった。
虎と対峙したまま、張コウは満足気に口元を綻ばせる。
そして、腰に佩いた剣には手を伸ばそうとはせず、拳術の形をとった。
両手を身体の前で構え、足を前後に開き、重心を落とす。
「おいでなさい、皮を剥いで差し上げましょう」
挑発するように、余裕の笑みさえ浮かべる。
張コウから放たれる闘気が空気をびりびりと震わせた。
かなりの強敵と本能で感じ取ったのか、虎はなかなか仕掛けようとしてこない。
猛獣をも凌駕する父の気迫に、雄は釘付けられるように見入った。
先に仕掛けたのは虎の方だった。
腹の内まで響く低い咆哮をあげて張コウに跳び掛かる。
睨み合いの勝負で、根負けした時点で勝敗は既に決していた。
地を蹴って襲い掛かる虎の牙と爪を張コウは紙一重で交わすと同時、
虎の鼻面に素早い手刀を繰り出した。
その強烈な一撃は確実に虎の急所を仕留めていた。
吹っ飛んだ巨躯は地面に叩きつけられ、苦しげにもんどりうつ。
勝敗は一瞬にして決したが、その光景は雄の記憶に鮮明に焼き付けられた。
初めて見た父の雄姿に、雄の瞳は尊敬と憧憬の念を抱いてきらきらと輝いている。
敵いそうにないと判断した虎は、尻尾を巻いて逃げ去っていった。
完全に虎の気配が消えると、張コウは構えていた拳を下げ、
妻子の無事を確認するように振り返った。
すると、小さな雄が興奮したような笑みで見上げてくる。
「ちちうえ、すっごいや!!」
クスと笑った張コウは大きな手を雄の頭に乗せた。
「雄もとても勇敢でしたよ」
雄はますます頬を紅潮させる。
この手が、猛獣を打ちのめしたのだ。
父子の絆を取り戻し、喜びの瞳でを見た張コウは、
「!?」
へなへなと座り込みそうになったに駆け寄り、その身を支えた。
張コウの腕の中では真っ赤になった。
「安心したら、急に力が……」
腰が抜けたらしい。
己の醜態を恥じて俯くに、張コウは愛しげに瞳を細める。
「あっ」
力が入らないを張コウはひょいと抱き上げてしまうと、耳元に唇を寄せた。
「腰を抜かすのはまだ早いでしょう?」
「―――っっ///」
何かを含むようなセリフに、は別な意味で顔を赤くする。
雄には聞こえないよう配慮したらしいが、子供の前でいかがわしいことを言うのは
どうかと思う。
教育上問題があるのではないか。
実際雄に聞こえたていたとしても、その深い意味を理解できるはずもないのだが。
母の心配を他所に、雄は未だ興奮冷めやらぬ瞳で両親を見つめる。
父の雄姿を目の当たりにする以前までは、仲睦まじい父母の間に力ずくで割って入った雄だが、
今は母を軽々と抱き上げる父の腕もひどく逞しく、そして頼もしく思えた。
逆に、母にだっこされる自分はまだまだねんねだと、幼心に自覚したのだった。
××××
町中に戻ると、すっかり日は落ちていた。
雄がいなくなったということで、張コウ邸の使用人たちばかりではなく、
民衆達も松明を手に捜索活動を手伝ってくれていた。
雄が無事見つかったと知ると、皆歓声をあげて喜んだ。
自分がいなくなっただけでこれほどの人が動いてくれたのは、
父の偉大さゆえだということを理解するにはまだ幼すぎる雄だが、
父がどれだけ民衆に慕われているかということは身に沁みて感じた。
ぼくはちちうえが大好きになったよ。
みんなに自慢するんだ。
ぼくのちちうえは素手で虎をやっつけたんだ、すごいだろうって。
おっきくなったら、ちちうえみたいな強くてうつくしいおとこになるんだ!
それから後、張コウ邸では母や侍女と遊戯をする雄の姿は見られなくなったが、
代わりに父に武術を教わる姿は常となった。
〜fin〜
―あとがき―
5005キリリクで、チャルさんに捧げました。
『母にべったりな雄に嫉妬する蝶様、でも父は強かった』なリク内容で書かせて頂きました。
本当はラストに、二人目を身篭っていて、仲良く出来なかったオチをつけようかと思ったのですが、
さすがに長くなりすぎるし、私自身蝶様と仲良くしたかっ(電波切れ)
チャルさん、このたびは素敵なリクエストありがとうございました♪
BGphoto Thanks≫「 AOXT Free Photo 」
いばら様のサイト 「美印不良品」にてムリヤリ(殴)リクエストし
素敵作品を戴きました ッ!!!o(≧▽≦)o
いばらさん宅の張サマの短編 「魂の調べのもとに」のその後。
張コウ氏の御子息「雄ちゃん」が個人的に大好きでして(〃▽〃)
>彼の"生まれて初めて発した言葉"…是非いばらさん宅で読まれて見てください!!(笑)
もう少し大きくなった「雄ちゃん」と父上である張サマ&ヒロインちゃんに逢いたいと思いリクさせて戴いた次第でした(*^-^*)
張サマの心情。ヒロインの心情。そして雄ちゃんの心情。
コチラに沁み入ってきますよね?
「甘えたい年頃」…間違う事無く張サマと雄ちゃんは親子です(笑)
内に秘めた底知れない強さとかもねッ?
いばらさん、本当に素敵な作品をありがとうございましたvv 多謝!!
いばらさんの作品にインスパイアされて落描き(;^^A ≫オマケ