その日は、雨が降った。
一日中ずっと、が仕事を終えて帰る頃になってもまだ止むことなく、しとしとと降り続いた。

空を仰げば、柔らかな雨。だが、冷たい感触。

細やかな霧の張りついて来る中、傘もささずに雑踏を歩く。

バッグの中には小さな折りたたみの傘が一つ入っているけれど、それを取り出して雨しのぎに開く気にはなれなかった。

道行く人の、家族連れの。……恋人たちの。

めいめいに楽しそうなその顔が、会話が、変に自分に染み付いて離れなかった。それらが、意識を逸らそうとしても葉っきりと聞こえてくる。
何気なく”音”として聞いているはずのそれが、奇妙に耳障りだった。

雨の音と共に、ひどくもの哀しさを含んで自分へ降りかかってきたのだった。


……私、今どんな顔をしているのだろう。


ぼんやりとは思った。

なんとなく、いや、実際にはそんなことは不可能なのだろうが、自分も雨と一緒に流れていってしまいたい…そんなことを考えが浮かんでしまうような、胸の詰まる心持ちだった。
いったい何故このように沈みがちな気分になってしまったのかはよく分からなかった。ただ、途方にくれたように夕方の街を歩いて行く。



(今日……誕生日なのにね)


点滅する信号に追いたてられ、小走りで横断歩道を渡り終え、ちらと後ろを降り返りながらがか細い声で呟いた。


そう、今日はの誕生日だった。

だが、何故か嬉しいという気持ちよりも、得体のしれない不安な気持ちがこの空のように重い色合いでの心に広がったのだった。
自分の誕生日を一人で、また特に何もせず過ごすことは大人になってからは特に珍しいことではなかった。
毎年誰か気の合う友達と騒ぐとか、何か大々的に派手な祝い方をしてもらっているわけでもなかったし、自分からそれを望んでいるわけでもない。


……けれども。

今日はなんだか無性に寂しかった。


年を取ると、大人へと成長するのは心も大人になることだと……何かあるとすぐ泣き出してしまう子供の頃のの心は、大人になればきっと強くなるのだと…そう思っていた。
だが…そうでもないようだなとぼんやり思う。

大人になることで、今まで見えなかった悲しみや不安に気づいてしまうことさえあるのだと。
それに気づかされて余計に。人恋しいようなそんな気分になった。

ただ、だからといって自分から人にすがるなどできなくて。
今日は、本当は。本当はこの誕生日を、誰かと一緒に過ごしたかったけれども、結局誰にも言えずじまいだった。

家族にも、「今日は仕事で遅くなりそうだから」……そう連絡しただけでは一人、夜の訪れた町を黙々と歩いているのだった。

近くに小さなショットバーを見つけ、自分の行き慣れたあの店……WAYのことが頭をよぎる。
けれどもはやや古い店の、その入口の席で適当に酒を見繕ってもらい、勢いよくグラスをあおってさっさと勘定をすませ店を出た。

少しの間しか経っていない筈なのに雨は、より勢いを増しながらざっと音を立てて降っていた。
店から出てきたが顔をしかめる。だがそれでも、濡れたままとぼとぼと道を歩く。


「おい」


何だろう。近くで男の声がした。


「おいッ!!!……なんて顔してる」


目の前からの大声にがハッと顔を上げる。

それまで自分に容赦なく降りかかってきていた雨が、ぴたりと止んだ。


の視界に入ってきたのは、無造作に伸びた長い髪。見なれた顔。 ……惇だった。
目の前に、惇が立っていた。が濡れないよう、傘をさしかけているのだ。

少しくたびれ気味の紺色のシャツが傘から少しはみだして濡れている。


「…惇」

自分の前髪からぽたぽたと落ちる雫を手で何度も払いながら、惇を見上げる

「今にも消えそうな顔……しやがって」

の髪にそっと触れ、惇がぽつりと呟いた。

「ど、どうしてここに…?お店は…」

「店は臨時休業だ。あと…迎えに来た。…………早く乗れ」


道の脇に止められた車を指す惇。
が歩きかけて、よろよろと足がもつれる。

「他所で、飲んだのか?酒の匂いがする」


「…いいでしょ、別に」

短く、ムスッとした顔で答える。車の行き交う道路の方をしばらく見ていたが少し下を向き、口元に手を当てる。


「……酔ったんだろうが。言わんこっちゃねえ」


が反論しようとしたが声にならないのか、惇の肩を力なくぴしゃぴしゃと軽く叩くしかできないらしかった。
惇はを支えて前方から視線を移さぬまま、黙ってに叩かれたままになっている。
そのうちの手も、すぐにおとなしくなった。


「…家まで、我慢できるか?」


穏やかに返って来た惇の台詞にがかろうじて頷いてみせた。
惇はそれから何も言わず、黙って静かに車を走らせはじめた。




「…」

「おい……大丈夫か本当に…」


惇と会う少し前、先ほどの店で引っかけた酒は思いのほか強かったらしく、その上最悪なことに車酔いまで起こしてしまったらしい。
は極限状態に陥っているのか、すっかり固く口を閉ざしてしまっていた。

「ちッ……仕方ねぇ…」

車から降り、惇はをそっと、なるべく揺らさないようにしながらゆっくりと抱きかかえ、エレベーターホールから部屋へと上がる。
はぐったりとしながらも落ちないよう、できるだけの力で惇にしがみついた。
惇の大きな手がの背中をしっかりと支えている。じんと暖かく、力強い手だとは思った。
自分の肩にわずかにかかる惇の息が心地良く、毒づいてみせる声も、いつもよりずっと優しく感じられた。

「着いたぞ……」

ドアを開け、明かりもつけぬまま惇がを抱え、奥へと進んでいく。

「んん……」
















の意識が戻ってきたのは、それからかなり時間が経ってからのことだった。


広い部屋の、厚めのカーテンからわずかに光がのぞく。

オフホワイトの壁…紺や黒などで統一された家具などが光に当たって照らし出される。

静かに、朝がやってきたのだった。

はおぼろげな気持ちのまま、ゆっくりと体を起こした。


昨夜は……正直あまり覚えていないのだが、あれから惇に連れられ、ここで寝ていろと言われ、自分はゆるゆるとここで眠り込んでしまったらしい。
ここは…惇のマンションの一室だろう、というのは分かった。趣味からして、簡素で、惇の部屋に違いないと思った。色も、惇の身につけている者と同じような色合いだったし、調度品も無駄がなかったからだ。

横たえられた寝床の上はとても柔らかで暖かく、夜の闇と共に惇の匂いが穏やかにを包み込んでいた気がした。
くらくらと酒の酔いと気分の悪さで酷い眩暈を起こしていたが、静かな空間が夜の間中、少しづつの体を癒してくれた。
朝になり、その不快感もすっかり治って元気になっていた。

広いベッドはやはり紺碧の色。
ただそこに惇の姿がないことに少し不安な気持ちになり、はおそるおそるベッドから出て、素足のまま絨毯の上に降り立った。
そろそろと歩き、寝室の端からドアを開け、ドアの開いた隙間から顔だけ出して部屋の様子を窺う。


「あ……こっち…リビングなんだ……」


隣の部屋は寝室とうってかわって、朝の光が満ち溢れていた。カーテンは左右に開けられ、大きな窓辺からはレースの細かな模様が床に影を落としている。大きな観葉植物が背伸びをするように葉を広げている。
室内にはテーブルと椅子がニ脚。手前にはやはり紺の色をした大きなソファーが置いてあった。


ソファーの、柔らかそうなひじ掛けに乗せられた足は……惇だ。
動く様子もなく静かな所を見ると、多分一晩中ここで寝ていたのだろう。ソファーの前に近づいてみると案の定、昨日会った時の格好で眉根を寄せたまま、惇が寝息を立てていた。

の手が惇の頬をそっと撫で、それから膝をついて惇の寝ている高さと同じになると、静かに唇を重ねた。
優しい沈黙が、その場に広がっていった。

「…惇」

もう一度接吻すると、少しして惇が返事をするようにやや強めに唇を押し付けてきた。


「んん…………おはよう……」


「……もう、大丈夫なのか?…体調は」


目を伏せたままの惇を見下ろしながら、はゆっくりと首を縦に振った。

自然光で見る惇の顔。
いつもは夜の人工的な照明の下でしか見ることのなかった顔が今、目の前にある。いつもの、仏頂面で。

だがそれがたまらなく優しく、いとおしかった。

「昨日……ごめん」


少し顔を離し、囁く

「いい。それより…誕生日、だったんだろ…お前の」


「えっ…憶えてたの?」

「淵が、ケーキ作るって張り切ってた」

「じゃあなおさら……悪い事したわね。あなたにも、淵ちゃんにも」

申し訳なさそうにが言うと、惇は「気にするな」と首を横に振る。

惇が、「ああ」と思い出したように呟き、それからキッチンの方、冷蔵庫を指した。


「何?」

首をかしげる

「いいから開けてみろ」

惇がそう言うので、がそっと戸を開けてみると、中には色とりどりのオードブルやデザート。

それと下段に一本、シャンパンの瓶が一本、金の鎖が瓶の口に巻き付いていた。


「昨日、俺と淵とでせっせと作ってたんだが。……作って一日は経ってないから、まだ食えん事もないだろう」

「こ、これ……私に?」


「まぁな。一日遅れになっちまったが…俺らから」

の手にしていた瓶から金の鎖を外し、の手首に巻きつける。繊細な鎖の、ブレスレットだった。


「いや、俺から。……ハッピーバースデー」

惇がついばむように、軽くノイズをたてての額に口付けた。

惇はの背を優しく抱き…照れ隠しなのかの頭をぽんぽんと撫でた。そして自分は冷蔵庫の中をごそごそとやると、
朝の光に包まれたテーブルに、料理を少しづつ並べていく。

これまでで一番、豪華な朝食かもしれないとは思った。

「ねぇ」

「なんだ?」


皿を運ぶ惇の袖をそっと引っ張る。

「…もう一回」

うつむきながらがもそもそと蚊の鳴くような声で言った。
惇は一瞬きょとんとした顔になりそれから、一瞬の顔をじっと見つめるとゆっくりと顔を近づけてきた。

至近距離で、ぴたりと動きを止める。


「……額でいいのか?」

惇が小声で言うとは、はにかんだように微笑み、「まかせる…」と小声で答えた。

惇の口が少し開いたまま迷ったように動きを止めて。


それから真っ直ぐにの唇に重なってきた。

優しい感触。

昨日感じた不安は、この唇の温度がすべて溶かしてくれるような気がした。












惇夢でした。少し遅くなってしまいましたがチャルさん、お誕生日おめでとうございます。
このお話のベースになったカクテル、"XYZ"は究極を示すカクテルだそう。
でもこれ、どのお店に行っても必ず置いてあるスタンダードな飲み物なので、かなり気軽にオーダーできるかと思います。
また、このカクテルには「あなたにお任せします」という意味もあるんですよ。と言っても、これが意味をなすのはケースバイケースだと思うのですが。

…そういえば。

私、お酒を飲み始めた頃にこのXYZ、ある人から「これはとっても基本的なカクテルだから、とりあえずそれを頼んでみたら大体その店の味がわかるんだよ」
などと教えられ、それを間に受けて、行く先々でしかも結構な頻度でばんばんこれを頼んでいた記憶が(汗)。
上記の意味合いを今になって考えるだに…バーテンさん、微笑(微妙な笑みと書いて微笑)ものだよ…などと思い返したり(遠い目)。
気の多い人間だと思われていたに違いないですね、はい(涙)。びっくりちゃん。(何)

話が逸れてしまいましたが惇から渡すプレゼント、ものすごーく悩みました。
淵ちゃんなら凝った演出をしそうなので、色々とバリエーションが頭に浮かぶのですが、惇は逆に難しかったです。
…というか、惇はどちらかと言うと物より気持ちを重視するだろうなという気がして。如何でしょうか。


Sep.19, 2004   モユ拝







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うっうっ…うわぁあああああぁぁあん。。。えぐっえぐっ…えぐぅっ。。(嗚咽)


『空中洋裁店・紬や』 のモユ様より賜りました。
こんな素敵な作品がオイラの誕生日プレゼントですよ?(T-T) もう感涙滝涙。
嬉しくてとーちゃん泣けてくらぁ!!←待てコノヤロウ!(殴)


漠然とした不安。…想い。
歳を負う毎に自分自身にしか判らない…否、自分自身でも判らない見えないモノに押し潰されそうになる感覚。
ただただ"おめでとう"の言葉やケーキやプレゼントが嬉しかった時期を超えた彼女(=貴女かも知れないし、私かも知れない)
…今こうしてココ読んで下さってる方ならこの感覚判ってくれるんじゃないかなぁ。。。などと思ったり。


「XYZ」の持つ意味は確かにケースバイケースですな。ふふふ(含笑)   「XYZ」で某"してーはんたー"(笑)を思い出すアタイ(;^^A
スタンダードなカクテルほど難しい…って言うじゃないですか?
その「究極」を呑み干して人間は前に進んで行くのですね(←何だ?何なんだ?・笑)

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夏の雨は優しい…かな? 惇兄は雨が似合いますね(〃▽〃)
確かに!モユさんの仰っている通り淵ちゃんはあれこれ「サプライズ!」してくれそうですが
惇兄は気持ちを重視してくれそうな気が―ワタシもします。

モユさん。本当に素敵なプレゼントをどうもありがとうございました!!
しっか!と惇兄御馳走になりますv(←待てい!!)







"明けない夜とあがらない雨はない"


  不安も迷いもシェイクして…

  混ざり合ったなら…


"What you about to witness is unheard.
 So welcome to the greatest show on earth..."


                        ―――幕が開ける。






                                                                  虹/The Gospellers('96)
                                                        The Greatest Show On Earth/R.Kelly('04)